平成24年11月8日  人生を考える(8)

京都の仏師に堀部幸男さんという人がいる。堀部さんは高校も大学も出ていない。普通、仏師を志す人は、中学を卒業すると同時に弟子入りし、彫刻を始めるが、堀部さんは二十六歳のときに入門した。普通の会社でいえば、中途入社に当たる。明けても暮れても下働きばかり、腐っても仕方がない状況にあった。十年修行して、ようやく技術的には追い付き、師匠に許されて独立したのが三十四歳。ところが長男が自閉症と診断され、大変重たい荷物となった・・・というふうに、堀部さんには優位な条件など、一つもなかった。

しかし、である。そこから開けていった世界は、驚くべきものだった。以下、彼の人生をたどりながら、それが言わんとしているものを汲み取ってみたいと思う。

昭和二十一年生まれの堀部さんは十歳のとき、父親を亡くした。後にはお母さん、彼、そして妹さんの三人が残されたが、頼みの綱のお母さんが過労で倒れて入院してしまった。そこで少年の堀部さんが新聞配達や牛乳配りをして家計を支えた。高校にも進学したかったが、経済的余裕はなかった。

お母さんが健康を取り戻して退院し、普通に働けるようになったときには、もう二十六歳になっていた。ようやく家計を支えることから解放された堀部さんは、京都の仏師のところに入門した。

普通仏師を志す人は中学を出て、十五歳で彫りはじめるので、みんな自分より十年はキャリアがある。彼らに追い付き追い越すことは並大抵ではない。昼に夜をついでの努力が始まった。そうして九年、ようやく評価されて独立したのは三十四歳のときだった。

「やれ、やれ。やっとこれで飯が食える」
と思ったのも束の間、また次の問題が起きた。目に痛くないほどかわいがっていた長男が何歳になっても言葉がしゃべれないのだ。何かおかしいと病院で診察してもらうと、自閉症という診断。脳天を斧でぶち割られたようなショックだった。

それから堀部さん夫婦の奮闘が始まった。何とか子どもに言葉を覚えさせようと努力するのだが、一向に効果は上がらない。小学校に上がる年齢になっても進学できず、家で教育するしかなかった。成長するにつれトラブルばかり起こし、町中では危なくて目が離せなくなった。

堀部さんは岡山の過疎の村に引っ越すことにした。大自然の中でのびのびと育てれば、息子もしゃべれるのではないかと思ったのだ。半日は岡山で仕事をし、週末は京都に帰って納品し、また次の仕事をもらって岡山で仕事をした。

そんな努力が功を奏したのか、長男に明るい兆しが見えて来たので.再び京都に生活の場を移した。今度こそうまくいくと期待した。

ところが、その子は学校に行っている訳ではないので、普通の子がまだ学校に行っている時間にファミコン・ショップやゲーム・センターに出入りする。店員さんがいぶかしがって話し掛ける。すると、トンチンカンな答えが返って来る。こいつは知恵遅れだと馬鹿にする。ある日、その子が逆上して飛んで帰ってきた。そして仕事場に駆け込むなり、お父さんに食ってかかった。

「障害児って、邪魔物なのか。いらないのか」

堀部さんは「そんなことはない」と否定したが、父親の言葉が耳に入らない。机の上の彫刻刀を取り「殺してやる!」と刺したのだ。それが左腕に突き刺さり、見る見るうちに朱に染まった。びっくりしたその子は家を飛び出したが、近所の人が捕まえてくれ、京大病院精神科に入院、堀部さんも救急車で病院に運ばれ、手術となった。左手神経切断。手術は四時間かかった。

ベッドに寝かされた堀部さんは考えた。
(何でこういうことになったのか。ようやく上向き調子になって来ると、必ず何かが起きて、ぶち壊しになる。どうしてほくの人生はいつもこうなのかーーー)

来る日も来る日も考えた。そうしたころ、中村天風先生の本に出合った。
「人間はどうしても目の前で展開する出来事に引きずり回され、ああでもない、こうでもないと悩んでしまう。確かに現象は悲観的な様相を呈しているかもしれない。でも、瞑想が深まり、宇宙霊との一体感が深まると、自分の人生は導かれている、必ず花開き、実を結ぶようになる、これ以上、悪くなりっこない、すべてはそこに至る一里塚なんだという確固不動の信念が育って来る。そうなると、人間は強い。少々のことがあっても、信念はゆすぶられない。すべて受けて立つことができるようになり、自分の人生の主人公になっていけるのだ」

そこで堀部さんはベッドの上で瞑想し始めた。一ケ月経ち、二ケ月経ち、三ケ月経った。すると、薄紙を一枚一枚はがすように出来事の " 意味 " が見えて来たのだ。それを言葉にすると次のようになる。

「形の良いだけの仏像を彫るだけでは、まだ一人前の仏師とはいえない。人々が仏像を拝むとき、人には話せない胸の思いがこの仏様は全部わかってくださっていると感じて涙を流されるーーー そうなったとき初めて、一人前といえる。そういう仏像が彫れるには、仏師自身がこの世の喜びも哀しみも辛さも全部体験する必要がある。そして悲しみの奥底で仏様に出会い、ぼくも見捨てられてはいない、確実に導かれているんだと実感したとき、本物の仏様が彫れるのだ」

瞑想の日々は覚醒の日々だった。リハビリを経て八ヶ月後、再び仕事に復帰した堀部さんは、一心不乱に彫った。彫ることが三度の飯より、睡眠を取ることより楽しかった。だから寝ることも忘れて彫ったのだ。

そうして彫りあがった聖観音像を床の間に安置していると、いろいろな方が拝みに来られた。そして涙を流してお祈りされるのだ。それは堀部さんには驚きだった。ある人は拝んでいるうちに鳴咽され、さらに号泣に変った。祈り終わり涙を拭いて言った。

「素晴らしい観音様を拝ましていただきました。この観音様に亡くなった父母が重なって、泣けて泣けてなりませんでした。ところで、あなたがこれだけの観音様を彫ることができるようになったのは、あの息子さんのお蔭ですよ。自閉症の息子さんがあなたの心の目を開いてくださったのです」

そう言われたとき、堀部さんは深く深く納得できた。あの息子が喜びも哀しみも教えてくれたのだ。堀部さんは心の内で息子さんに対して合掌していた。

そうなると、今度は人生がありがたくてたまらない。状況は以前と少しも変わっていないのに、毎日が楽しくてならないのだ。

「東風先生が『人生は心一つの置きどころ』とおっしゃっていたのは、このことなのか。心の持ち方でまったく変わってしまうんだな」

堀部さんが新しい世界を発見して、心楽しい毎日を送っていると、新聞雑誌が取材に来るようになった。日本テレビがドキュメント番組「息子と共に彫り上げた稚児地蔵」を制作し、1997年10月5日、全国に放映した。雑誌やテレビを見られた方々から手紙が来る。返事を出す。また手紙が来る・・・。こうして生きる世界が広がっていった。

堀部さんの人生を俯瞰すると、人生において起きる出来事は全て意味があることがわかる。人の目には不利に見えることでも、それは意味があって起きているのだ。だから自分が置かれた状況に不平を抱かず、受け入れ、そこで最善を尽くすことだ。すると、すべてのことが肥やしとなって、ますます人物ができあがっていくのだ。


(神渡 良平)



目次へ戻る





E-Mail
info@fuyol.co.jp


ホーム 在来工法プレカット 金物工法プレカット 特殊加工プレカット 等 耐震門型フレーム 等
地球温暖化と木材 健康と木造住宅 会社情報 お勧めリンク 横尾会長の天地有情
当社プレカットによる施工例写真  社員のブログ天国