平成24年4月12日  アマゾンの森は今!
                 アマゾニア森林保護植林協会会長 長坂優 氏


ブラジルで絶大な信用がある日本人

私は25歳の時、単身で移住しました。45年間、現地で生活しております。南米には12の独立国がありますが、ブラジルは10カ国と国境を接し、南米大陸の半分の面積を持っています。面積は日本のほぼ23倍。そんなブラジルは半分以上、日本の13倍の面積をアマゾン流域が占めています。

アマゾンには、自慢できる物が2つあります。まず、地球上に有る酸素の3分の1をアマゾンの自然がつくっているということ。アマゾンの森がもたらす新鮮な空気は、ジェット気流に乗り、地球上の隅々まで運ばれます。二つ目は、アマゾン川。ブラジルの隣国、ペルーのアンデス山脈に降った雪が源になり、延々流れて6992キロメートル。日本からの距離にすると、シンガポール辺りまでになるらしいのですが、世界
一長い川です。もっと驚くのは、その川幅です。河口の幅は360キロメートル。東京から上越新幹線で新潟までが約360キロメートル。ちょうど本州の幅が、アマゾン川の河口の川幅になるのです。

今まで世界の64カ国の人々がアマゾンの開発、開拓に構わってくれましたが、ほとんど志半ばで本国に逃げ帰っております。唯一日本人だけが、1人も日本に逃げ帰ることなく、アマゾンに定着したのです。日本人は、小さな体でお金も物もほとんど持たずアマゾンの開拓に入り、大変な苦労と辛酸をなめ、マラリア、黄熟病、デング熱という三大熱病で多数の犠牲者を出したのですが、1人も逃げ帰りませんでした。

私は日本で生まれ、日本で育ちました。ところが、日本人の強さ、素晴らしさというのは、アマゾンに行って、戦前に移住した日系人から教えてもらったのです。

日本人は、アマゾンにただ移り住んだだけではありません。アマゾンの名前を世界に紹介する、二つの特産物をつくっております。

その一つがコショウです。移民監督官として、アマゾンに赴いた白井牧之助さんという人が、アマゾンに向かう途中、シンガポールでコショウを見て、「これから行くアマゾンは同じ熱帯だから、種か苗を持って行けば育つだろう」と持ち出しました。1933(昭和8)年のことです。当時の黒コショウは「黒いダイヤ」と言われるほど大変高価なもので、シンガポール政府は独占するために、持ち出しを禁止していましたが、白井さんは竹筒を用意して中の節をくりぬき、20センチほどの挿し木苗20本を中に隠して船に持ち込み、アマゾンに持って行きました。残念ながら、18本が枯れました。たった2本から芽が出たそれを、加藤友治、斎藤円治という一般の移住者が大事に育てて増やし、今では世界の三大大陸といわれる、アマゾンのコショウ王国をつくり上げたのです。

もう一つ、アマゾンで日本人はとんでもない偉業を成し遂げております。ブラジルの特産物はコーヒーで、世界市場の約85パーセントを占めていますが、それを輸出する時に使う麻の袋は、全部インドから輸入していました。このことを本で知った国士舘高等拓殖学校(現 国士舘大学)の学生主事をしていた辻小太郎が、「ジュート(黄麻)という植物を育てれば、必ず袋ができる」と考え、1933年、卒業生の若い人たち120人を連れて、アマゾン川1000キロ上流パリンチンスという所に入植しました。ところが、長い繊維が採れないので袋ができませんでした。「こんなことをしていても、生活に困るだけだ」と米を植え、自給自足の生活にした方がいいと、全員ジュートの栽培をやめてしまいました。

しかし、たった1人、岡山県出身の尾山良太が、仲間から「お前はばかだ」と言われながらも毎年ジュートをまき拭け、5年後、2メートルになってもまだ伸び続ける、突然変異の品種が見つかったのです。ばかにしていた仲間もみんな集まり、アマゾン川の中に入ってまで、増水した川の水に流されないようにジュートを守り通し、12粒の種が取れました。次の年からその種をまき、さらに5年後、ブラジルコーヒーを輸出する麻の袋は、全部アマゾンの日系人が栽培するジュートの袋で輸出できる、という偉業を成し迎げております。

現在ブラジルでは、日本人の信用は絶大です。ブラジル語で「ララン・チード」と申しまして「確実な信用がある」という語の源は、戦前の移住者たちのその努力のたまものなのです。



斧と鍬だけの開拓は 自然破壊にほかならない

そのアマゾンが今、世界の注日を集めています。1992(平成四)年、リオデジャネイロで開催された、初めて環境と開発に関する国際連合会議、いわゆる「地球サミット」で、今世紀地球上に残された最後で最大の大自然、アマゾンの緑を守ろうという「環境と開発に関するリオ宣言」が出されました。「地球の肺」と呼ばれ、地球上の空気の3分の1をつくる貴重な自然を守ろうと宣言したのですが、1997年、京都で開かれた地球温暖化防止京都会議では、アマゾンのアの字も出てきませんでした。次のヨハネスブルクで開かれた国際会議でも同じでした。世界の3分の1の空気をつくるアマゾンの自然は、今大変な勢いで乱伐され、既に全域の16パーセントは自力再生不能と盲われています。その責任の半分が日本にあります。

政府の『環境白書』、ワールドウォッチ研究所の年次刊行物『地球白書』という本を読んでみてください。世界で流通する木材の50パーセントが、日本で利用され消費されている、と書いてあります。 

アマゾンを救う方法。まずはこれ以上自然林を「切らない、買わない、使わない運動」です。皆さんが住んでいる日本は、国土の67パーセントに緑が残っている。、世界で二番目の環墳優良国です。そんな日本の皆さんが、水源地にブナの林をつくり、中には外国の砂漠に行って木を植えようという、自然に対する優しい心を持っているのが救いです。世界で一番自然に対する関心がある中は、日本人です。

二つ目は、既に荒廃地となった所に木を植えて、植林で緑を増やす方法です。これが、私たちが行っている植林活動です。しかし、私自身若い時からこんな考えだったわけではありません。アマゾンに行った当時は、できるだけ広い農場、牧場が欲しいと思いました。斧と鍬だけで、1日1本の木を倒す開拓から始めましたが、8年目にチェーンソー、11年目にトラクター、15年目にブルド−ザーという重機が入り、飛
躍的に開拓の面積が広がりました。一番広い時には3400ヘクタール。これだけ拓いたらもういいだろうと思い、今94歳のおふくろと兄にアマゾンに来てもらいました。自慢したかったのです。

一番広い農牧場の上に連れて行き、小高い丘から自分の牧場を見せ、「おふくろ、兄貴、見てくれ。向こうの地平線から、こっちの地平線まで俺の土地なのだ。俺の牧場から太陽が上がって、太陽が沈むのだ」と話したら、おふくろが「ああ、よくやったね。1人で頑張ったね」と言ってくれると思いました。ところが、おふくろは言わなかったのです。たった一言「なんでこんなに暑いのだ」と。横にいた兄が口を挟み「優、おめえ、木を切りすぎたのじゃねえか。ここに1本木を残したら、俺たちは日陰に入って涼しいのに、お前はなんで全部切ったのだ」

なぜか涙が止まらない私の頭に、開拓の情景が浮かんできました。「1日中芹を握り、血のりで斧が離れないほど顧張って1本の木を切り倒した時、樹齢何百年という木は、断来魔の悲鳴で地響きをもって倒れるのです。伐探して3か月たちますと、山焼きといって火をつけます。紅蓮の炎が天を焦がし、真っ黒な煙の空となるその時の熱さ、ちょうど自分が立っている牧場の小高い丘の上に熱風となって押し寄せる熱さを感じた時、初めて気がつきました。斧と鍬だけの開拓は自然破壊にほかならない。自然の恩恵を受け、自然の恵みで生活している農業者が大農場を持つと、自然破壊になると。

たまたま日本人会の会長をやっていましたから、新年会の時、開拓仲間に話しました。全員が賛同しました。「俺たちはアマゾンに来て、自然の恵みで生活しているのに、まだアマゾンに恩返しをしていない。使っていない土地があるから、自分たちで木を植えよう」

1990年から、植林活動が始まりました。今既に、150ヘクタールの予定地ほとんどを満たすほど木を植えています。最初に植えたところは、うっそうとした森になりました。既に20年間植林を続けていますが、まだまだ微々たるものです。

私が植林を始めた当時は、「地球人一人一本植林運動」でした。今は、1人1本では地球が破滅します。1人5本植えないと、地球が存続しないのです。どうして5本かといいますと、最初の木は、皆さんが吸う空気のためです。2本目は家屋、家具のための1本。3本目は日常雑貨、子どもの学用品のための1本です。4本目は子ども、孫のための1本を植えます。そして最後の1本は、木を植えるよりも食べるほうが大変な、貧しい人たちのための1本。この5本の「木」という漢字、組合わせると、「森林」という言葉になります。

三つ目の方法。無理、無駄、ムラをなくすということです。日本は、昔から紙と木の文化を伝承してきました。皆さんの生活の中に、紙、木、パルプでできたものがたくさんあると思いますが、そのもとはみんな樹木、木なのです。そのできたものを、無理に使ったり無駄に捨てたりムラがある使い方をしますと、資源がどんどんなくなっていくのです。自然は、私たちに空気、材木を与えてくれているだけではありません。私たちが食べている食べ物も、ほとんど自然の恵みなのです。



日本の先祖は草で生活してきた

私は、たまたまアマゾンに移住し、45年間自然に生かされて生きてきましたが、自然から教えられたことはたった一つしかありません。それは、私たち人間は、目に見えるものを大事にするということ。しかし、本当に大事なものは、目に見えないものだということを、アマゾンの自然が教えてくれました。空気は、目に見えないけれども大事なものなのです。

原始林を切り開き、1日1本ずつ切り倒して3カ月半。初めて緑の天井に穴が開き、太陽光線が差し込みました。その明るさ、暖かさを肌で感じた時、日本では一度も感謝したことがないのに、太陽に手を合わせ、「ありがとう」と言いました。

入植した時、町から360キロメートル離れた原始林の中に、14キロ間隔で私たち21人の青年は降ろされました。「ここが、あなたの土地ですよ」。着いたその日だけが極楽でした。見えなくなるようなところまで、自分の土地なのです。「奥行きは、どのくらいありますか?」と聞いたら、「拓けば拓くだけ、あなたの土地です」。大地主になったように錯覚しましたが、次の日から1日1本しか切れない。1本切り倒して、夢と希望が崩れ去り、3年いたらサルになるという感覚になりました。

水を求めて7キロメートルのけもの道をつくり、小川のほとりにヤシで葺いた屋根、璧のないほったて小屋を建て ハンモックで生活しました。約2年、たった1人の生活です。皆さんは、何日人を見ない体験がありますか?

入植して8カ月、初めて人間を見る機会がありました。日本から巡回診療で回ってきたお医者さんです。私たちのところへ来る予定はなかったのですが、21キロメートル離れたブラジル人の集落に日本の青年がいるらしいということを聞き、たまたま車を停めたのが、私がつくったけもの道の入り口でした。7キロメートルの道を歩いて入ってきてくれたのです。

私は8カ月間、髪の毛は切らずひげも剃らず、野生動物、天然の木の実、自然の果物で飢えをしのいでいましたから、栄養失調の青白い顔だったと思います。「おーい」という声が聞こえた時、幻覚症状だろうと思っていましたら、姿が見えました。日本人とわかった時、熱い血潮がカーッと頭にきました。日本人に会うことができた、これで話すことができるのだと思うと、涙が止まりませんでした。

「病気はしていませんか? 食べるものは、ありますか?」と聞かれました。うれしいのに、笑えません。しゃべりたいのに、声が出なくて涙が出るのです。先生の顔が曇りました。「アマゾンには、アマゾングリというクリがあります。1日7個食べなさい。ヤシの油でいいから、さかずきに一杯生で飲みなさい。人間の体は、それでカロリーは十分、君が見ているこの草、全部食べられます。日本には『山菜野草』という言葉がありますね。春と秋の七草という風習が残っているのは、日本の先祖はみんな草で生活してきたからで、その日本人の君が、ここで草を食べても大丈夫だ」と励ましてくれました。

あれほどしゃべりたかったのに、一言も声が出せず、立ち去る先生の後ろ姿に頭を下げた私ですが、次の日から草食動物になりました。ありとあらゆる草を噛み、苦くしびれる草は吐き出し、日本にもあるムラサキツユクサ、アカザという雑草をいっぱい食べたから、いまだに命があるのです。一緒に入った12人の青年のうち、2人は自分で命を短くし、7人は熱帯熱病に倒れ、1人は盲腸の手術ができないために亡くなりました。

私は、マラリアにかかりました。2日間、汚い話ですが、自分の尿を見て「ああ、死ぬな」と思いました。薄黄色く澄んでいなければいけない尿が、熱に侵された肝臓が溶けて出るのだと教えられましたが、しょうゆのように真っ黒で。3日目にはもっと恐ろしいものを見ます。液体でなければいけない尿が、真っ黒なハチミツのような状態となり、糸を引いて2〜3摘出るだけなのです。それを見ただけで、私は意識がなくなりました。日本からつけていた日記の最後のページに、震える大きな字で「たった1人の開拓は、死んでも1人のままですか?」と書いてありました。

奇跡が起きました。隣の青年が、朝体温を測ったら熱が出始めていました。歩けるうちに、長坂のところへ行けば助かるかと、14キロ歩いて訪ねてくれたのです。助けてほしいと思って来たのに、私の姿は、ハンモックを真っ黒に汚し意識不明。その青年はハンモックごと私を坦ぎ、7キロメートルの道を歩いて道路に出ました。車がほとんど通らない開拓の道です。3日の野宿、何とかベレンという町まで運び出してくれたのに、一銭もお金のない開拓者、たれ流しの汚い患者を入れてくれる病院はありませんでした。

やっと見つけた無料診療所、難民が押し寄せ、ベッドは一つも空いていませんでしたから、レンガ1枚のセメントベッドに寝かされました。その冷たさ、ちょうど氷の上に寝かされたような冷たさで、そのショックで半分意識が戻ったら、周りは黒山のブラジル人。町の日本人の成功者がお金をカンパしてくれ、ちゃんとした病院のベッドに移してくれました。

身寄りもなければ引き取り手もいない私に、「うちに来なさいよ」と言ってくれた日本人がいました。それが今、私の女房です。式も披露宴も何もなく、原始林に.戻りました。



追い詰められたとき 先祖からの精神力が湧き上がる

私は戦後初めての外務省研究派遣で、アマゾンにお世話になりました。生活が落ち着いてから、日本の大学生126人をお世話しました。この他に16人だけですが、麻薬の常習者、恐喝、強盗、暴行の犯罪者のワル、校内・家庭内暴力の暴れん坊、親と2年半もロを利かない引きこもりの登校拒否の子どもさんをお預かりしました。預かってみて、わかりました。今の日本の子どもは怖いものがないのです。

私の持っている土地に、原始林に近い再生林があります。ツタを採りに子どもを連れて行きます。そしてわざと、私が隠れるのです。1人にします。最初のうちは「おじさん、長坂さん」と呼んでいますが、出て行かないと完全に切れて、「ばかやろう から始まって、知っている限りの悪態。「親父、とっとと出てきやがれ」と、木を蹴っ飛ばし、枝葉を折って、虚勢を張ります。日本の習慣が抜け切れていないのです。

日本の家で暴れれば「近所迷惑、恥ずかしい」と言って、親が少しは言うことを聞きます。学校で暴れれば、体罰のできない先生が「話せばわかる」と言うのですが、アマゾンでは、シーンとした中で、自分の声しか返ってきません。30分も放っておきますと、手どもたち全員が同じ行動をとります。16歳から21歳の青少年が、これだけ泣くかというくらいワーッと泣き出します。

まだ、放っておきます。うろうろ歩き回るばかりの子どもたち。必ずしゃがみこみます。座ったとたんに、全員の目つき、顔つきが変わります。生きて出ようという決意が目つき、表情に表れるのです。日本人の強い忍耐力、古い言葉で大和魂、武士道精神といいますが、自覚していないだけで、心の底からご両親、おじいさん、おばあさんが持っているその精神力が湧き上がり、何とかしようとするのです。その時初めて後ろから名前を呼んでやります。シクシク泣きながら立ち上がった子どもたち、ガバッと振り向いて私の姿が見えますと、またウワーッと怒鳴るように泣きながら走って来て抱きつくのです。その時の目つきは、空港で引き受けた時の陰険な目つきではありません。親にも話さなかったことを、全部話してくれます。

アマゾンの大自然や、私が治すのではありません。子ども自身が自分の心で初めて知った恐ろしさ、初めて人間の価値がわかった時、素晴らしい人間に生まれ変わるのです。

ぜひ一度、アマゾンへいらしてください。現地で植林した木とともに、皆さんが来るのを楽しみに待っております。




  平成23年2月ロータリー講演録より
 



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