平成23年6月6日  明治の薄幸の歌人 山川登美子

私は5年前、頭部内出血で開頭手術を受けましたが、退院後しばらくは身の置きどころのないふらつきとしんどうさに悩まされました。食事もとれず、ひたすらベッドで目を閉じ耐え忍んでいるばかりでした。
 


   ふらつきて 夕餉もできぬ 暗き夜を とよもす耳と 夜を明かしつつ

 わが病みて テレビも見れず ふみ読めず ベッドで目閉じ ひたすら耐へる

 病み臥して すべなく耐へる まくらべの 山川登美子の うたぞかなしき


  「おっ、横尾君、君も与謝野晶子より山川登美子の方が好きか! わしもや!」
今は亡き孤高の歌人・前登志夫先生が思わずにっこりされました。

山川登美子は明治12年7月福井県小浜で父が後に第二十五銀行頭取にもなった名望家に生まれました。
明治28年登美子は若狭をあとにして大阪に出て長姉の嫁いでいる家に寄宿して梅花女学校に進学しました。
生家で少女時代、琴や生け花や文学をたしなんでいた彼女は寄宿のさみしさからか次第に文学に、そしてとりわけ短歌に深い興味を示すようになったようです。
短歌雑誌にたびたび投稿するうちに、やがて与謝野鉄幹の目にとまります。
 


   鳥籠を しづ枝にかけて ながき日を 桃の花数 かぞへてぞみる
  登美子


  やがて同じように青春の命を歌に打ち込んで、投稿しているひとつ年上の鳳晶子とも親友となっていきます。鳳晶子は堺の駿河屋という菓子屋の娘で、これまた美人才媛であったといいます。
与謝野鉄幹は東京在住で既に結婚していましたが、鳳晶子と山川登美子という二人の若い女流歌人の卵に会うためにしばしば来阪するようになります。
そして彼女らもまた次第に師匠・鉄幹に恋慕の情を抱くようになります。
明治33年4月、鉄幹が新詩社を結び、その社の機関誌「明星」を創刊した時でした。
 


   いまだわれ 嬉しといふに 口慣れず 唯だあたたかき 悩みといはん
  鉄幹


 わが恋を 人に問はれて 心にも あらぬ彼方の 星仰ぎ見ぬ
  鉄幹


 くれないに そのくれないを 問ふごとく おろかやわれの 恋を咎むる
  鉄幹



  登美子もまた漸次ロマンティックな空想と激しい情熱で「明星」に投稿しています。  


   とことはに 覚むなと 蝶のささやきし 花野の夢の なつかしきかな
  登美子


 去年の春 蝶を埋めし 桃の根に すみれもえでて 花咲きにけり
  登美子


 新星の 露ににほへる 百合の花を 胸におしあてて 歌おもふ君
  登美子


 知るや君 百合の露ふく 夕かぜは 神のみこえを 花につたへぬ
  登美子



  鉄幹が再三、来阪し講演会や歌会を開催しますが、登美子や晶子の歌は歌会でも秀でて、常に鉄幹と同人の賞賛を浴びていたようです。
 


   手づくりの いちごよ君に ふくません その口紅の 色あせぬまで
  登美子


 手づくりの いちごよ君に ふくません わがさす紅の 色に似たれば
  鉄幹(改)


 月の夜を ひそかにいでて 朝がほの 明日さく花に 歌結び来ぬ
  登美子


 月の夜を 姉にも言はで 朝がほの 明日さく花に 歌結び来ぬ
  鉄幹(改)


 髪あげて 挿さむと言ひし 白ばらも のこらず散りぬ 病める枕に
  登美子



  登美子の歌は詩的空想の中の哀愁さを帯びていたのに対して、晶子の歌は情熱的であり、想いをぶっつける歌い 一方は多才、一方は多感多情であり、甲乙つけ難いものでした。
また、登美子の歌があらわに鉄幹への思慕を言わないのに対して、晶子の歌は大胆にそれをぶっつけていった。それがこれからの二人のたどる運命を預言しているようでした。
 

   君よ手を あててもみませ この胸に くるしき響の あるは何なる
  晶子


 小百合さく 小草がなかに 君まてば 野末にほひて 虹あらはれぬ
   登美子


 むらさきの 衿に秘めずも 思ひ出でて 君ほほえまば 死なんともよし
  鉄幹


 人の世の ものにもあらずと 雲にのり 星の女神の とり来ます歌
  登美子


 師とよぶを ゆるしたまへな 紅させる 口にていかで 友といはれん
  晶子


 その浜の その松かぜを しのび泣く 扇もつ子に 秋問ひますな
  登美子



  明治33年8月9日、三人で満月を住吉大社の境内で鑑賞しようということになりました。こぼれるような月明を浴びながら、三人は住吉社の社頭に額づいた後、境内の蓮池のほとりを歩き、そして水際の亭で休みました。  


   神もなほ 知らじとおもふ なさけをば 蓮のうき葉の うらに書くかな
  鉄幹


 歌かくと 蓮の葉をれば 糸の中に 小さき声する 何のささやき
  登美子


 月の夜の 蓮のおばしま 君うつくし うら葉の御歌 わすれはせずよ
  晶子



  以後も晶子、登美子は競って鉄幹に投稿し続けます。  


   血汐みな なさけに燃ゆる わかき子に 狂ひ死ねよと たまふ御歌か
   晶子


 病みませる うなじに細き かひなまきて 熱にかわける 御口を吸うはむ
   晶子


 やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君
  晶子


 雲きれて 星は流れぬ おもふこと 神にいのれる 夕ぐれの空
  登美子


 あたらしく ひらきましたる 歌の道に 君が名よびて 死なんとぞ思ふ
  登美子


 露の香の うつれとばかり 口つけぬ 御歌に入れる 白芙蓉の花
  登美子



  私の最も好きな登美子の歌といえば  


   それとなく あかき花みな 友に譲り 背きて泣きて 忘れ草つむ
  登美子


  登美子が両親の決めた結婚のため、大阪を離れ若狭の実家に帰郷しなければならなくなったとき、鉄幹と晶子と三人で、想い出多い住吉大社にまた詣でた時の歌です。
若狭に親の決めた許婚者がいて、もう帰郷しなければならないことを鉄幹と晶子に告白したのです。
 


   うつつなく 消えても行かむ わかき子の もだえのはての 歌ききたまへ
  登美子


 きのふをば 千とせの前の 世とも思ひ 御手なほかたに ありともおもふ
  晶子



  そしてこの許婚者と結婚したのですが、夫はすでに結核を患っていて、病状は重くなるばかりで東京での新婚生活は苦難に満ちたものとなってしまいました。
やがて夫は亡くなってしまいます。夫の死後若い未亡人として、夫の両親と同居して暮らすことになりますが、その生活も苦労・心労の連続であったといいます。
そしてついに復籍して若狭の実家に帰ることになります。若狭の実家でも出戻りとして冷遇されたようで、ここも安住の地ではありませんでした。
 


   いかならむ 遠きむくいか にくしみか 生まれて幸に 祈らむ指なき
  登美子


 今の我に 世なく神なく ほとけなし さだめするどき 斧ふるひ来よ
  登美子


 帰り来む 御魂と聞かば 凍てる夜の 千夜も 御墓の石 いだかまし
  登美子



  この間、堺の晶子は、と言うと、堺の実家を捨てて上京して、鉄幹のもとに走り、間もなく姓を与謝野と改めたのです。晶子の心は恋の勝利者として、女王のように華やかなものでした。
晶子の処女歌集「みだれ髪」は一世を風靡し、彼女は文学者として、また歌人としての地位を不動のものとしました。

一方、登美子は孤独と寂寥(せきりょう)の生活が続き、ついに出京を決意し、東京の日本女子大学へ入学したのですが、その年あたりから亡き夫と同じ病・肺結核をわずらってしまいました。
大学に出ることもままならず、病は悪化して行き、この間彼女が最も頼りとしていた父親をも失うことになりました。
再び彼女は暗澹たる悲境のどん底につきおとされてしまいました。
 


   雲居にぞ 待ちませ父よ この子をも 神は召します ともに往(い)なまし
  登美子


 たのもしき 病の熱よ まぼろしに 父をほの見て 喚(よ)ばぬ日もなし
  登美子


 うつつなき 闇のさかひに 静かなる うすき光を たのみぬるかな
  登美子


 泣かぬ日は さびしく泣く日は やや楽し うつろなる身に 涙こぼれよ
  登美子



  かつて、鉄幹の主宰する新詩社の才媛のなかでも、美人といわれていた彼女の容姿も今は見る影もなくなり果てていました。病苦と心労とは彼女の顔をこの世のものではいように衰えさせていきました。  


   矢のごとく 地獄におつる 躓(つまづ)きの 石とも知らず 拾ひ見しかな
  登美子


 わが柩 まもる人なく 行く野辺の さびしさ見えつ 霞たなびく
  登美子



  最後に

 父君に 召されて去なむ 永久(とことは)の 夢あたたかき 蓬莱のしま
  登美子



  この一首を仰臥のまま書きつけて弟に与えて、明治42年4月15日の午後 ついに登美子は故郷・若狭の地で31歳を一期として幸薄い短い生涯を閉じたといいます。  



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